名将気取り

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2006年 06月 15日

空漠の第1戦

 日本のW杯初戦は見事に完敗した。オーストラリアに勝つことは予想しづらかったのは確かだが、終了間際の3失点で逆転負けという構図はあまりに滑稽だった(参照)。各選手のコンディションが低調でなかっただけに悔やまれる敗戦である。

 日本の布陣は中村を2列目に配した3−4−1−2。対するオーストラリアはキューウェルが先発で左アウトサイドに入った3−4−3に近い変形型の3−4−1−2で、思ったよりロングボール一辺倒ではなかった。

 ヒディングの狙いは日本のFW陣を抑えるのではなく、中盤のパスの出所を塞ぐことに集約された。つまり中村と中田英寿を完封することである。布陣的に中盤センターが3人になっていたことで、抑え込むこと自体は難しくは無かったようだ。
 中田は自ら敵を引き付けて下がり目に位置してはいたが、実質的に攻撃面での貢献度は限定的に相殺された。その分、中村は自由に動ける時間帯を持ち得たのだが、決定的な場面は演出しきれずに終わった。

 柳沢・高原の2トップはこの日、間違いなく絶好調で考えられる最高の出来に近かったと言える。動きの質は申し分なく、コンビネーションも完璧とも言える精度を見せた。
 確かに得点はできなかった。FWとしてそれが評価基準の総てではあるが、日頃から高い決定力が売りの人材ではないFWを2人並べて、点が獲れなかったからとなじるのはどうか。彼らはチャンスメイカーであって、インザーギやシェフチェンコ、クローゼのような点取り屋ではない。

 ジーコの狙いはどうか。生粋の負けず嫌いジーコは、現チームでは手堅いと考えられる3バックで初戦に臨んだ。勝ちに行くと言うより、絶対に負けないことに力点を置いた布陣である。オーストラリアにはこれで勝ち点を計算できると考えたのであろう。その意味では後半40分まで彼の狙い通りに試合は運んだ。

 あの先制点は決して日本が自力で得た得点ではないとは言え、失点以降のオーストラリアが攻めに出なければならないことには変わりがなく、日本にとっては願ったり叶ったりの好状況になった。オーストラリアのラインが上がれば、日本のFW陣のスピードが活かせるスペースができる。何回かカウンターでチャンスを作り出せば、その内数度は決定機を創出できるはずだった。

 事実、日本は幾度かの決定機を作り出したのである。そのすべてを不意にしたことが、敗戦の直接的にして唯一の原因である。のちの失策その他は汚点のおまけに過ぎない。

「リードしている間にカウンターから何回かチャンスがあった。中央からの突破もあったし、サイドからの突破もあった。教訓として思っていたことだが、そこでしっかり決めないといけない。鉄則だ。オーストラリアが3トップにしてパワープレーに持ち込んできて、こぼれ球を拾われて2点を失った。オーストラリアが3トップにした時点から、(オーストラリアの)後ろ(の守備)が薄くなっているのは確実。あそこで追加点を取っておけばこういう結果にならなかった」(ジーコ日本代表監督・試合後会見/参照

 カウンターを喰らって、ヒディングは相当に焦っていた。オーストラリアが後半途中から長身FWケネディを投入し、パワープレーに切り替えたことで神頼み的なギャンブルに出たとも言える。つまり、ゲームを作ることを捨てて、点を入れることのみに頭を切り替えたのである。

 結果的に日本に対する攻略法として、ロングボールの放り込みによるパワープレーほど効果的なものはなかった。徐々に日本守備陣はラインを下げざるを得なくなった。福西一人ではこぼれ球を拾えなくなってきた時間帯に、新たな選手を投入するとすればいくつかの選択肢があった。
 まずは、疲労した福西の交替。または稲本や中田浩二ら中盤の底をこなせる選手を福西と並べて配置する方策。しかし、ジーコの考えは違った。こぼれ球を拾って大きくクリアするだけの逃げ切り工作ではなく、もっと効果的にボールを繋いで支配率を高め、果てはそのゲームメイク作業の延長線上に得点を期待するという攻撃的なカードを選択した。後半34分、小野の投入である。

 柳沢に替えて小野を入れたことで、中田英寿が2列目に上がり3−4−2−1へとシフトチェンジした。これがこの試合の分水嶺となった。動きの良かった柳沢を替えたことで、最前線に置ける敵陣でのプレス効果が激減し、パスの出し所が高原一人になったことでコースが限定的になった。
 しかも高原がマークを嫌って左右のサイドに流れることで、実質的には1トップどころか0トップと化し、2列目以下の中盤の選手が長い距離を駆け上がって前線に飛び出すしか攻撃方法がなくなってしまった。

 中盤の選手構成の中で、フリーランニングでの機動性を期待できるのは福西ただ一人。松井や本山ら機動力に優れた選手を切ってしまったジーコには、選択肢そのものが少なかったと言えるのだが、それでもジーコが期待した小野の展開から、福西が一度決定的な場面を作った。あれを決めていれば、ジーコの采配は、神の英断と崇められたであろう。思う壷の場面だった。しかし、無情にもゴールには見放された。

 スタミナのない中、疲弊した身体に鞭打って長い距離をランニングしてきた福西のシュートミスを切り捨てるように言い咎めるのは酷だろう。事実、彼は疲労困憊だった。直後のオーストラリアの2点目の場面で、福西はケーヒルのプレーを淡々と歩きながら見守っていたが、完全にガス欠になっていた彼を責めることはできない。彼を替えなかったのは、監督であるジーコの決断なのだ。

 ジーコはまさかスタミナの消耗を知らなかった訳ではあるまい。知っていてなお、攻撃のカードを切ったのである。無論、スピードに優れた玉田であるとか、小野よりは機動性に期待できる小笠原であるとか、他の選択肢もあるにはあった。しかしながら、小野の投入がたとえ中途半端な影響しか与えられなかったとしても、ジーコの内心は守備より攻撃に重心が傾いていたことは確かである。彼は中途半端なカードで勝負出て、そして高らかに大負けした。

 同点にされた際に、選手の動揺はこれまでになく大きかった。ジーコからは何意思表示もないまま、小野の投入から、選手個々が指揮官の思惑を推し量るしかなかった。とりあえずは、引き分けで終えるのではなく攻めるのだろうと、おぼろげながら想像したに相違ない。

「(中澤から)下がって来なくていい、前でやってくれと言われた。守りの選手も点が欲しかったのでしょう」(小野・談/参照

 福西だけを中盤の底に残し、小野が攻撃思考で前線を眺めている間、オーストラリアは3枚目のカードも切り、徹底的にロングボールからのこぼれ球拾いに徹した。人数が足りないのだから拾いに拾われる。揚げ句の3失点で反撃の息の根は止められた。

 守ってきた虎の子の1点を、オーストラリアに追い付かれた同点のシーン。天を仰ぎ、現実を受け入れられないかのような選手たちの表情は、あたかも8年前のフランス大会でのクロアチア戦での失点シーンを思い浮かばせた。失点で慌てる、または集中が切れる、諦める、つまりは意識を切り替えられないという日本人選手のメンタリティは何も変化していない。8年の歳月では、ナイーブさという弱点は何一つ改善されてはいなかった。

 ただ、何よりもまず忘れてはならないのは、今回のオーストラリア戦はジーコにとって監督として戦う初めてのW杯であったということだ。無論、ジーコは選手として燦然たるキャリアを持っている。フランス大会でもブラジル代表チームに帯同し、決勝まで駒を進めた。しかし、全責任を負って自らで決断する立場で迎えるW杯は今回が初である。つまりは前回大会のトルシエ以下、または前々回大会の岡田武史と同等の経験の無さである。そんなジーコでW杯を戦えると踏んだのは日本サッカー協会であり、それらを受け入れてきたのは日本国民である。ジーコが悪い訳ではない。どんな監督でも、初のW杯は初陣に過ぎないのである。

 しかしこのオーストラリア戦の敗戦は、事実上、日本のグループリーグ敗退を決定づける意味合いを相当に含んでいる。唯一、勝ち星の計算できる相手に3失点しての敗戦は痛過ぎる。

 最も悔しがっているであろうジーコは、昨年のコンフェデ杯の再現を狙ってクロアチア戦に燃えている。コンフェデでは、初戦のメキシコ戦に負けて、2戦目のギリシャ戦を4バックで勝ち、続くブラジルとの3戦目を「2−2」で引き分けた(参照)。あの再現を狙っていると言うのだ。

 ギリシャに勝ったようにクロアチアに勝ち、同じくブラジルと引き分けに持ち込む。ここから巻き返して再現できるとすれば、かなりのものだが、しかしコンフェデでは1勝1敗1分でグループリーグは敗退しているのである。それを再現してどうする。

 先制しても勝ちきることのできない3流国である日本は、すでに世界を驚かせたはずだ。今大会、先制して逆転負けを喫したのは日本が初。ジーコが驚かせたかったのは、もちろんこんな無様な醜態で、ではあるまい。

 しかし逆に考えれば、オーストラリア戦をあのまま「1−0」で勝ちきり、安穏したまま第2戦目を迎えるよりは良かったかも知れない。あの得点を自分たちでもぎ取ったものであると誤解して、変に油断してクロアチアと戦い惨敗を喫するよりはマシかとも思えるのだ。2戦目で大敗した後の修正は殊に難しかろう。

 どちらにしても、初戦のオーストラリア戦に関しては、よほどの楽天家でもない限り日本が勝利するとは考えていなかったと思われる。良くて引き分け、初戦での黒星も予想の範疇に充分あったはずだ。
 あの1得点は明らかにミスジャッジであり、あの得点を無効にされたとしても何ら不思議はない。むしろ駒野が倒れた場面でのPKを見過ごされた方に日本人は抗議すべきであるのだ。

 ジーコは無策の男だが、この期に及んで無策でいられる神経は尋常ではない。あの得点は僥倖以外の何物でもないが、もしかすると神からの贈り物であったのかも知れない。ジーコゆえの贈り物、だからこその敗戦か。

 しかしながら、ジーコであるからこそまだ諦めるのは早いとも思えるのだ。ジーコ麾下の日本代表チームは開き直ってこそ、無欲の底力を発揮してきた。今以上の土壇場は他にない。お誂え向きの場面設定になったと言える。とにかくもその状況こそ皮肉だが、このチームはジーコに始まりジーコに終わるチームである。

 3−4−1−2で臨んだ初戦は、中盤で流麗なパス回しを披露しきれた訳ではなかった。強みである中盤の器用さをまったく出せずに負けた。次戦は小笠原を入れた4−2−2−2で戦う公算が高い。パス回しにおいては、1戦目より余程期待はできるだろう。

 2列目にドリブラーのいない日本は、唯一の武器である中村のフリーキックを活かせない。初戦でも中村の左足を活かせる位置でファウルを取りきれなかった。2戦目以降も取れる場面は極めて少ないと見る。となれば、ミドルシュートからのこぼれ球を拾う他に手がない。小笠原のミドルはその意味で重要な武器であると言える。彼が得点しなくてもチャンスを生み出す可能性があるということだ。

 グループリーグでは試合の中身は問われない。重要なのは如何に勝ち点を得るかである。グループリーグを突破できなければ、何のための4年間であったのか。何故にジーコでなければならなかったのかも見えてこない。

 ここ数十年ないと言われるほど世代的に中盤に才能の集まったチームだが、若かった彼らも軒並み年を重ねた。次のW杯で何人が残っていようか。しかも次大会以降はオーストラリアがアジア枠に食い込んでくる。日本がW杯出場を逃す可能性も高くなるだろう。

 つまり、日本は現代表チームで結果を残しておかねばならない。今回それが叶わなければ今後10年、何も残せない怖れすらあるのである。トルシエが掘り上げた種は育ちきった時分だ。収穫の時は今をおいて他にない。その可能性をジーコは知っており、また本人も信じきっているが、国民はその可能性と共に、今回何も結果を残せなかった場合の怖れを果たして感じきれているかどうか。

 今のチームに若い選手は絶望的なまでに少ない。次大会以降へ繋がる線路は完全に断たれていることは自覚すべきである。それだけの危険と怖れを知った上で、今大会の成績や戦いぶりを見る必要がある。収穫の時に収穫できなければ、飢えることになるのは必然だろう。空漠とも言える第1戦目を終えて、2戦目への期待と怖れは小さな物ではあり得まい。

 気合いの抜けた3戦目のブラジルと好勝負を演じ、終わってみれば1敗2分。そのように自堕落な結末を、予想の通りに進めてもらっては困るのである。
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by meishow | 2006-06-15 01:05 | フットボール


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